酔いどれ度:4 ■■■■□
私は田舎町の出身です。
チビの頃は賑やかな街でしたが、今では見る影もないほどのシャッター街になってしまっています。
老人ホームと葬儀場が乱立する悲しい街です。
私が小学生の頃は活気がありました。
祭りがあれば町内外から「どっから来たの????」というほど人人人でした。
大きな花火大会も行われていました。
全国的に有名なメーカーさんも何件か健在していますが、このままだと本拠地を移動してしまいそうな勢いです。
元町民として活気づけたいのですが、単独ではとても力が足りません。
。。。生い立ち紹介のぺーじでしたね。
兄弟は私含め2人。
父は私が高校生の時に末期がんで病死しています。
母親は若干病弱ですが、いまでも健在しています。
父親の仕事の都合で、小学校と中学校の母校が4校あります。
転校が続いたので、思い入れは薄いです。
父の仕事の影響で、私は小学生にして電気関係に興味を抱きました。
当時、地元に模型店は1件しかなく、レンズに色がついた麦球を父親に買ってもらった記憶があります。
(その頃はまだLEDなんて庶民は買えませんでした)
父の髭剃りで使って弱った電池をもらい、麦球をつないで遊んでました。
(髭剃りの性能がアレなのか、1週間に2本づつ使いかけの単三電池が発生していました)
気がついたころには、手元に麦球が6個ほどありました。
そして、子供にとっては超大イベントである夏休みがきました。
一般的には夏休みの自由研究は拷問だったようですが、当時の私にとっては〝工作を作っていい至福の時〟 でした。
小学2年の頃でしょうか。自由研究でどうしても麦球をつかった工作をしたくて、父親におねだりした記憶があります。
そして、父と打ち合わせした結果作ることになったのが〝交差点〟
交差点には信号機があります。それを電気的(全手動)で光らせる工作です。
そして、信号機に麦球は不適ということで、豆電球とスイッチと油性カラーペンを父は買ってくれました。
豆電球の表面に油性ペン(マッキー)で赤、黄、青の色を塗りました。
小2の技術ですので、塗り方は相当雑だった記憶があります。(電球つけっぱなしにしてると焼けるんですよ油性インクが)
配線は銅線被覆をむいて、端子に巻き付けるだけ。
信号機は、父が吸っていたKENTのタバコの空き箱に豆電球を突き刺したものです。
(今思えば、小学生の工作にタバコの空き箱は不適な気も…)
スイッチをおすと、赤、黄、青に豆電球が光ります。
小学生の頃の自分は、実際の信号を再現しようと、スイッチをカチカチしていました。
歩行者用信号も作ったので、結構リアルでしたよ!
箱の表面は、絵具で色を塗りました。
学級内で表彰を取った気がします。
そうやって、私の工作熱はあがっていきました。
高校大学も工業系に進み、今も電気系の職に就くことができました。
就職難な時期で苦労しましたが、ある程度希望通りで幸せに思います。
しいて言えば、小中学校は転校を繰り返し、高校大学は男子校の工業でしたので、
女性には縁がありません・・・なんだかなぁ。