生い立ち

酔いどれ度:4 ■■■■□

s-dsc04884

私は田舎町の出身です。

チビの頃は賑やかな街でしたが、今では見る影もないほどのシャッター街になってしまっています。

老人ホームと葬儀場が乱立する悲しい街です。

 

私が小学生の頃は活気がありました。

祭りがあれば町内外から「どっから来たの????」というほど人人人でした。

大きな花火大会も行われていました。

全国的に有名なメーカーさんも何件か健在していますが、このままだと本拠地を移動してしまいそうな勢いです。

元町民として活気づけたいのですが、単独ではとても力が足りません。

 

。。。生い立ち紹介のぺーじでしたね。

 

兄弟は私含め2人。

父は私が高校生の時に末期がんで病死しています。

母親は若干病弱ですが、いまでも健在しています。

父親の仕事の都合で、小学校と中学校の母校が4校あります。

転校が続いたので、思い入れは薄いです。

 

父の仕事の影響で、私は小学生にして電気関係に興味を抱きました。

当時、地元に模型店は1件しかなく、レンズに色がついた麦球を父親に買ってもらった記憶があります。

(その頃はまだLEDなんて庶民は買えませんでした)

父の髭剃りで使って弱った電池をもらい、麦球をつないで遊んでました。

(髭剃りの性能がアレなのか、1週間に2本づつ使いかけの単三電池が発生していました)

気がついたころには、手元に麦球が6個ほどありました。

 

そして、子供にとっては超大イベントである夏休みがきました。

一般的には夏休みの自由研究は拷問だったようですが、当時の私にとっては〝工作を作っていい至福の時〟 でした。

小学2年の頃でしょうか。自由研究でどうしても麦球をつかった工作をしたくて、父親におねだりした記憶があります。

そして、父と打ち合わせした結果作ることになったのが〝交差点〟

交差点には信号機があります。それを電気的(全手動)で光らせる工作です。

そして、信号機に麦球は不適ということで、豆電球とスイッチと油性カラーペンを父は買ってくれました。

豆電球の表面に油性ペン(マッキー)で赤、黄、青の色を塗りました。

小2の技術ですので、塗り方は相当雑だった記憶があります。(電球つけっぱなしにしてると焼けるんですよ油性インクが)

配線は銅線被覆をむいて、端子に巻き付けるだけ。

信号機は、父が吸っていたKENTのタバコの空き箱に豆電球を突き刺したものです。

(今思えば、小学生の工作にタバコの空き箱は不適な気も…)

スイッチをおすと、赤、黄、青に豆電球が光ります。

小学生の頃の自分は、実際の信号を再現しようと、スイッチをカチカチしていました。

歩行者用信号も作ったので、結構リアルでしたよ!

箱の表面は、絵具で色を塗りました。

学級内で表彰を取った気がします。

そうやって、私の工作熱はあがっていきました。

 

高校大学も工業系に進み、今も電気系の職に就くことができました。

就職難な時期で苦労しましたが、ある程度希望通りで幸せに思います。

 

 

しいて言えば、小中学校は転校を繰り返し、高校大学は男子校の工業でしたので、

女性には縁がありません・・・なんだかなぁ。